記事一覧

礼拝奨励

2009年01月01日(木)11時39分

「最初のしるし」
2008年12月28日
仙台教会主日礼拝奨励 長島慎二
 キリストは降誕後、およそ30年して、ようやくその公生涯を始められました。救い主としてのその最初のしるしは、ガリラヤのカナで示されました。イエス様の母マリアや弟子たちも参列した極めて私的な婚礼の場でそのしるしが示されたのです。このことは第一にわたしたちの励ましになります。少人数の仲間内や家族の食卓に共に加わって、恵みの業をお示しになる方であるということです。また、わたしたち自身が、家族として、あるいは弟子として、そのみ業の証人となることができるということです。わたしたちが不特定多数の一人としてではなく、イエス様に近いものとして自らの人生を振り返ることができるのです。
 それにしても、マリアとイエス様の会話はなんと不思議な会話でしょうか。ある解説書では、母マリアは、イエス様にぶどう酒の手配を依頼したのではとありました。わたしは、むしろ、しるしを促したのではないかと思います。「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、その通りにしてください』と言った。」とあるからです。母マリアこそは、受胎告知以来、身をもって神のご計画を体験してきた方です。結婚前に子を宿したことは、紛れもない事実であったからです。それ以来、30年に渡ってイエス様を育ててきました。おそらくは、その体験の中で、わが子の神性を確信し、その公生涯を始められるときを覚悟をもって待っていたのに違いありません。当時の寿命を考えれば30歳という年齢は、何かを始めるのには決して若くはなかったでしょう。母マリアにしてみれば、一体何時になったら、息子は公生涯を始めるのだろうと考えていたのではないでしょうか。
 解説書では、イエス様の少し冷淡な受け答えは、イエス様のみ業が神様の御心に出発点を持つものであることを表すものであるとあります。とはいえ、イエス様御自身も、おそらくはヨセフが既に亡くなっていたと推測される状況で、母マリアのことを心配なさっていたと思います。そのようなときに、母マリアはイエス様を後押ししたのではないでしょうか。
 さて、こうして示された最初のしるしは、水がめの水をぶどう酒に変えることでした。水がめの水はユダヤ教の清めの水でした。その水がめに一杯に満たした水がぶどう酒に変わりました。福音がもたらされたしるしでありました。ところで、召し使いたちが、その水がめに水を入れるとき、縁まで一杯に入れたとあります。わたしは、これは神との闘いであると思います。わたしは神を信じてより闘いを続けてきました、信仰生活とはそういうものです。そして、その闘いは、この世との闘いであるようで、実は神との闘いであるように思います。神の御心から目をそむけないでいなければならないからです。イスラエルの族長であるヤコブがペヌエルで格闘した際に、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」と言っているのは、まさしくヤコブが信仰に生きた人であったということだと思います。
 わたしたちも、命一杯、闘っていきたいものです。神様の命令であれば水がめの縁まで水を入れたいのです。そのことこそ、自らの十字架を負ってキリストに従うことであると思うからです。アーメン

クリスマスイブメッセージ

2009年01月01日(木)11時36分

クリスマスイブメッセージ2008
「父なる神の眼差し」 長島慎二

 クリスマスおめでとうございます。わたしの亡くなった兄が重度の精神薄弱児であったことは、これまで証をしたことがありますのでご存じと思います。わたしが小学校2年生の時、このようなこどもたちが生活することができる、いわゆる入所型の施設が故郷にできました。兄はそこに入所することになりました。おそらく両親は、わたしや弟の将来を考えて決断したのだと思います。兄が入所して3日後、家族で兄の様子を見に行きました。暗い夜でした。まして、その施設は少し山間にありましたので、あたりには灯りのひとつもありませんでした。漆黒の闇にうずくまるように建つ施設にいくつかの窓灯りがあって、そのうちのひとつに当たりをつけて近づいていきました。中に気づかれないように、窓の外からそっと覗き込みました。そこには兄の姿がありました。わたしは、いまでもその光景を忘れることはできません。そのときの両親の心情について、そのときのわたしは小さかったので推し量ることはできなかったと思いますが、今は、察して余りあります。言葉を重ねる必要はないことです。もちろん、兄は、夏休みなども含めて、毎月自宅に戻っていましたが、何も解らずに家族から引き離されて生活したことを思えば、ある意味では捨てられた子供であったということになります。

 二千年前の最初のクリスマスもまた、あの日と同じように暗い夜であったと聖書は伝えています。焚き火を除いて灯りのあるはずもない野原に主の栄光があって、天使が讃美の歌を歌いました。羊飼いたちは急いでベツレヘムに行き、馬小屋を覗き込みました。果たして、そこにはヨセフと母マリア、そしてひとりのみどりごがいました。羊飼いたちは、そのみどりごが天使たちが伝えたメシアであるとの確信をもって、人々にその出来事を伝えました。
 確かに、そのみどりごはメシアでした。神の子でした。しかし、その赤ん坊は三十数年後に十字架に磔にされるという神のご計画の定めを負っていたのです。一体、この世のどこに、子供をもうけるにあたって、その子の将来の幸いを願わない親などがいるでしょうか。死刑台にかけるために子供をもうける親などというものがあるでしょうか。しかし、羊飼いたちが目の当たりにしたそのみどりごは、神の子であって、十字架につく定めを負っていたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とある通りです。果たして、馬小屋の隙間から、みどりごに注がれた眼差しは羊飼いたちのものだけだったでしょうか。息を殺して注がれた父なる神の眼差しがあったのではないでしょうか。
 今日、このクリスマスイブもまた、教会の窓から、神の眼差しが注がれているのではないでしょうか。わたしたちが、その眼差しを全身で感じ、その背景にある父なる神の愛を知るとき、神の救済の歴史に自らの名前が書き記されていることを悟り、また、新しい一歩を踏み出すことができるのではないかと思います。神様によってこそ、この場に集められたみなさんに神様の限りない恵みと祝福と赦しがありますように。アーメン

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

2008年09月29日(月)09時04分

 個人的なことですが、我が家は長女の下に双子が二組生まれました。家族が7人になった時、家族が一緒に乗れるようにと、8人乗りワゴン車を購入しました。一人分はイエス様の席という気持ちでした。振り向いたら、目に見える姿でイエス様がいらっしゃったらどんなにか心が躍ることだろうと思います。イエス様がそばにいると思えば、怒りや悲しみは和らぎ、喜びは増すことです。
 
 今日は、大学の聖書研究会でした。毎週、昼休みに10人に満たない学生たちは礼拝堂に集まってきます。その中にイエス様がいらっしゃる。みことばの約束を信じて楽しい時間を過ごしています。
 
 いよいよ10月になります。どうぞ、教会にも集まってきてください。
 
長島慎二

わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。

2008年09月10日(水)09時31分

 カナンの女の信仰のエピソードは、キリストに食い下がるように求めていったその母親の信仰に目が留まります。しかし、その前に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)というイエス様のみことばに魅かれるものがあります。イエス様御自身が、その歩みの全てを天の神様に遣わされたものとして確かな自覚をお持ちであったということです。
 わたし自身のキリスト者としての自覚は、神様により与えられる使命に生きることです。キリストを信じるようになってより、随分と人生が変わりました。単なる自己実現とか、学問的真理の探求の使命などというものではなく、第一にキリストに遣わされる存在としての人生になったのです。人生を振り返るとき、神を肌に感じながら生きてきた時を与えられて来た喜びは何にも代えがたいものと思います。

 14日は、久しぶりに横浜から逸見牧師が駆けつけてくださいます。礼拝は10時半からになります。神様によって遣わされるひとりの牧師と共にみことばを聴きたいと思います。

長島慎二

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた

2008年09月01日(月)07時49分

 昨日は、信徒礼拝でした。伊藤兄は説教の中で、イエス様が弟子たちを「向こう岸へ先に行かせ」(マタイ14:22)という箇所に言及していました。ガリラヤ湖上で嵐にあった記事は、他にもありますが、その箇所では、イエス様も一緒に舟に乗っていらっしゃいましたこととの対比があります。

 海や湖は悪魔の住むところというイメージが聖書的にはあると聞いたことがあります。それは、わたしたちの現実の世界であり、わたしたち自身の心の中を示しているようにも思います。そのような場所に、イエス様は弟子たちを送り出されたのです。

 昨日の伊藤兄の説教にありましたが、舟は教会を示すものだそうです。誘惑や苦難に満ちている現実の海に、わたしたちは漕ぎ出して行きますが、教会という舟に護られています。これも、昨日の説教にありましたが、イエス様は弟子たちを「先に行かせ」られたのです。つまり、イエス様も必ずいらっしゃるということですね。

 来週は、また、藤井牧師による説教になります。その次の14日は、横浜から逸見牧師がいらっしゃいます。その日は礼拝が10時半からになります。楽しみにしていてください。

長島慎二

ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。

2008年08月24日(日)12時55分

 キリストが5千人に食べ物をお与えになった出来事の際、弟子たちは、「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」(マタイによる福音書14章15節)と進言しました。

 人里というのは、わたしたちの現実の社会を表しているように思います。現実の糧を得るためには教会などに行っていられないという気持ちが、わたしたちの心に生じます。しかし、わたしたちの全存在を現実的に養っているのは人里ではなく、生ける神である。そのことを教えられているように思います。キリスト者にとって、まさしく生きるとはキリストなのです。

 来週は信徒礼拝になります。みなさん、楽しみにしてください。

長島慎二

聞き分ける心

2008年08月21日(木)09時59分

 わたしが勤務している大学では、学生による授業評価を行っています。授業評価を始めてから、自分自身が随分変わったと思います。それまでは授業を受ける学生の気持ちを十分に受け止めることができなかったと思います。人の気持ちを聞き分けることは、本来難しいことなのでしょうか。人は自己中心的な存在なのだと思います。
 ソロモンが王様になる際に、神様に「この僕に聞き分ける心をお与えください。」(列王記上3:9)と願っています。前後の関係からすると、民の訴えを聞き分けることのように思えますが、その前に、神様の声と聞き分ける心をお与えくださいと願っているのではなでしょうか。わたしたちの心に渦巻く種々の声の、どれが神の声であるかを聞き分ける心を持ちたいと思います。

 仙台教会のホームページデザインを更新しました。ついでに、鶴ヶ谷教会のホームページと、日本福音ルーテル教会仙台地区のホームページも設置しました。それぞれのアドレスは以下の通りです。よろしくお願いします。

日本福音ルーテル鶴ヶ谷教会
http://www.jelc-sendai.com/tu/index.html

日本福音ルーテル教会仙台地区
http://www.jelc-sendai.com/index.html

長島慎二

万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています

2008年08月10日(日)14時11分

 毒麦のたとえについてバークレーの解説書を読んだ記憶があります。毒麦は大麦のことで、農民が小麦の中にそれを見つけたときには、すでに根が絡み合っているので、そのままにしておくのです。イエス様の話を聞いていた人々の中で、小麦を栽培しているひとたちは容易に理解ができたのでしょう。このたとえを話されたときのイエス様と、なるほどと顔を輝かせて聞き入っている人々の姿が思い浮かべられます。
 
 今日の礼拝で、藤井牧師は、ローマの信徒への手紙にある「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8章28節)は、これまで多くのキリスト者を励ましてきた御言葉でしょうとおっしゃいました。本当にそうだと思います。この世的な物差しとは違った物差しがあるのです。喜びと希望をもって明日を迎えたいと思います。

長島慎二

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2008年07月27日(日)03時42分

 普段、疑問を抱かずに乗っている飛行機も、なぜ空中に浮かぶのかを感覚的に理解することは困難なことです。最大離陸重量が400トン近くになるジャンボジェットでも、4つのエンジンの出力を合計しても120トン程度ですので、エンジンの推力でその重量を支えることはできません。
 飛行機は、操り人形のように糸が付いているわけではありません。飛行機の周囲の空気がその重量を支えているのです。

 わたしたちも、普段、当り前のように息をしていますが、目に見えず、触ることもできない神様が、わたしたちを支えてくださっています。

 飛行機の話に戻りますと、見えず触ることもできない空気は、1立方メートル当たり1キログラムの質量があります。肉1キログラムを空中の四方八方に1メートル間隔で並べたとします。それが時速数百キロメートルでぶつかってきたとしたらどうでしょうか。

 飛行機は、空気を下方に押し下げることによって揚力を得ています。わたしたちが神様に支えられていることの背景にも、神様がわたしたちの重荷を担ってくださっているということがあるのだと思います。

 わたしは、来週の日曜日は大学のオープンキャンパスの仕事で教会に来ることができません。一方で、教会はいつもオープンですので、オープンチャーチなどという言葉は存在しません。いつでもおいで下さい。

長島慎二

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。

2008年07月21日(月)18時30分

 教会に通い始めた頃のことでした。職場の先輩が心配して忠告してくれました。先輩が面識のあった方でキリスト者になった方がいたそうです。家族のなかで、その方だけがキリスト者であったそうです。はたして、その方が亡くなったとき、葬儀もお墓もお寺さんだったとのことでした。

 わたしは家族がキリスト者になっており、実家の弟家族もキリスト者になりましたので、これは仮定の話しですが、自分が亡くなった後で葬儀が仏式で為されたとしても、そのことを気にする者ではありません。

 そもそも、わたしたちが主と仰いでいるキリストは、ローマ帝国の処刑方法で亡くなりましたが、神はキリストを黄泉から復活させられたのです。わたしたちは、そのことに希望を抱いているのです。
 
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とイエス様は教えてくださいました。わたしに忠告をしてくれた先輩は、心から心配して忠告をしてくれたのですが、わたしが、その忠告のほうを大切にしていたとしたら、わたしはキリストの弟子にはなれなかったでしょう。

長島慎二

ページ移動