記事一覧

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。

2008年07月21日(月)18時30分

 教会に通い始めた頃のことでした。職場の先輩が心配して忠告してくれました。先輩が面識のあった方でキリスト者になった方がいたそうです。家族のなかで、その方だけがキリスト者であったそうです。はたして、その方が亡くなったとき、葬儀もお墓もお寺さんだったとのことでした。

 わたしは家族がキリスト者になっており、実家の弟家族もキリスト者になりましたので、これは仮定の話しですが、自分が亡くなった後で葬儀が仏式で為されたとしても、そのことを気にする者ではありません。

 そもそも、わたしたちが主と仰いでいるキリストは、ローマ帝国の処刑方法で亡くなりましたが、神はキリストを黄泉から復活させられたのです。わたしたちは、そのことに希望を抱いているのです。
 
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とイエス様は教えてくださいました。わたしに忠告をしてくれた先輩は、心から心配して忠告をしてくれたのですが、わたしが、その忠告のほうを大切にしていたとしたら、わたしはキリストの弟子にはなれなかったでしょう。

長島慎二

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者

2008年07月13日(日)08時47分

 キリスト者となって人生が変わりました。最も変わったのは、それまで人前で話すことができないと思っていたことを、人の前で話すことができるようになったことでした。わたしたちの人生の全てが神様の許しのもとにあることを知って、それまで隠していたことも喜びをもって証しすることができるようになったのです。イエス様についての証しができることは、わたしたちにとっての喜びなのです。

暑くなってきました。来週も共に礼拝を喜びましょう。

長島慎二

群衆が飼い主のいない羊

2008年07月06日(日)08時20分

 子供が小さい頃、家族でディズニーランドに行ったときのことでした。メリーゴーランドの順番を待っていたとき、ふと娘の姿を見失っていることに気がつきました。おそらく30秒にもならない時間だったと思います。大変なショックを受けましたが、娘もすごい形相でこちらを探していました。
 神様とわたしたちの関係も、このようなものなのではないでしょうか。普段、神様のことを考えていませんが、ふと、神様を見失っていることに気がついたとき、わたしたちは飼い主のいない羊(マタイによる福音書9章36節)のような存在なのではないかと思います。
 イエス様は、そんなわたしたちを深く憐れんでくださいます。目を上げましょう。イエス様の憐れみ深いまなざしに触れることができるのに違いありません。

長島慎二

わたしの天の父の御心を行う者

2008年06月22日(日)18時06分

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)とあります。
 わたしたちの信仰が聞くだけの信仰になっていることを指摘されています。わたしたちの目の前には、信仰が良い実を結ぶべき馳せ場があります。御心を行わない者は目を逸らしているのです。御言葉が土台になっていないのです。

 藤井牧師の説教で、自分の行動が信仰に適っていると疑わない者の危うさを教えられました。謙虚に、繰り返し御言葉を聞き、また実を結ぶ者となりたいと願います。

 礼拝前に、教会の玄関に立ち寄った方がいらっしゃいました。今日は、御用があるとのことでした。神様の導きがありますように祈ります。

長島慎二

自分で自分を裁くことすらしません

2008年06月15日(日)07時56分

 本日は、特別伝道礼拝でした。ルーテル学院大学のティモシー・マッケンジー先生によって、礼拝説教と昼食後の講演会をしていただきました。
 「内村鑑三が愛した2J's」と題した講演会では、皆が感想を述べ合いました。楽しい時間でした。

 本日読まれた聖書には、
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(コリントの信徒への手紙一4章3節、4節)
とありました。励まされました。

 来週は、また9時半から礼拝が始ります。お待ちしています。

この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです

2008年06月08日(日)20時08分

 6月も第2週目となりました。暑い日曜日でした。藤井牧師と仙台の梅雨の時期の話をしました。「いつも、梅雨前には暑くなるんです」と答えました。
 礼拝では、マタイによる福音書5章より愛敵の教えを学びました。私自身は、キリストの言葉に従おうとしても、最後に、「あいつだけは愛せない」と思う相手こそ敵なのだと思っています。キリストの教えは、やはり十字架を通して受け取るべきと感じます。

 本日の第2の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙Ⅰには、「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」(3章18節、19節)とあります。好きなみことばです。
 このブログでは、兄のことをいつも書いて恐縮しますが、つまるところ、わたし自身がなりたいのは兄のような存在なのです。説明は困難ですが、そのように感じ、また、人々の前で証しできることこそ、救いなのです。

 来週は、いよいよ、特別伝道礼拝です。みなさん、教会でお待ちしています。

長島慎二

知恵はないけど

2008年06月01日(日)01時11分

 父は精神薄弱児の兄について、「けいちゃんは、知恵はないけど、人のことを悪く思ったり、意地悪したりしない」と、よく言っていました。その通りでした。
 今日は、マタイによる福音書5章21節以下の御言葉から、心の中にある罪を学びました。兄の清さは、わたしの罪深さを思い知らせました。
 今日の御言葉に含まれているキリストの言葉は、真実であるからこそ厳しく迫ってきます。とはいえ、目をえぐり出すことも、手を切ることもできません。罪の無いキリストが、かわりに十字架に架かられたことが、さらに厳しく迫ってきます。

 6月15日の特別伝道礼拝については、トップページに案内をリンクしてあります。
http://www.jelc-sendai.com/ch/event/index.html

 来週も教会でお待ちしています。

長島慎二

地の塩

2008年05月25日(日)21時18分

 兄は、実にたわいないことが好きでした。夏の宵、蚊帳の上に抛り揚げた風船を下から突いて遊びました。童謡のレコードをかけると踊りました。ときどき、兄はわざと精神薄弱児のふりをして私をみているのではないかと感じました。罪意識の萌芽でした。
 兄が好きなたわいない遊びは、実はわたしも好きでした。町を歩くと白い眼で見られた兄でした。この世的には役に立たないと思われていました。しかし、わたしをキリストに導きました。今でも、わたしにとっては清い存在です。まさしく地の塩であったのです。

 6月15日は特別伝道礼拝です。ルーテル学院大学のティモシー・マッケンジー先生が礼拝説教をなさいます。詳細は後日、お知らせします。

長島慎二

しかし、疑う者もいた

2008年05月18日(日)18時23分

 マタイによる福音書28章16節以下は、11人の弟子達が、ガリラヤの山で復活の主と出会った記事です。「しかし、疑う者もいた」とあります。記事を書いたマタイ自身の告白だったのではないでしょうか。使徒とされた弟子であっても、キリストの復活を目の前にして疑いを持たざるを得なかったのです。

 わたしがキリスト者になった背景には、直接的には職場で聞いた御言葉があります。しかし、振り返ってみると、精神薄弱児の姿をとって、わたしの前に現れたキリストの姿もあったと思います。

 マタイは、「しかし、疑う者もいた」と告白しましたが、この記事は喜びと確信をもって書かれています。私達も常に疑いにさらされますが、小さな者の姿で共にいてくださる主によって、喜びと確信をもって御言葉を宣べ伝える者となりたいものです。

長島慎二

聖霊降臨日

2008年05月11日(日)15時30分

 小学生になったばかりの頃でしたが、重度の精神薄弱児であった兄が山間の施設で生活することになりました。ほどなく、夜間に両親と兄の様子を見に行きました。本人に気付かれないように、そっと、窓の外から様子を伺いました。両親は、将来を考えて決心したのでしょう。わたしは罪悪感を抱き、また、両親の心の内を想像しました。今は、両親も兄もこの世にはいませんが、そのときのことは、今でも忘れることができません。

 聖霊の神様も、そっとわたしたちを見守っておられるのでしょうか。十字架に架かられたキリストの思いがあるでしょう。来週は三位一体主日です。みなさん、教会でお会いしましょう。

長島慎二

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