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家族の十字架(マタイ10:34~39)

2008.07.23

 イエスは自分が来られたことによって、家族が分裂し対立し、敵になると言われた。イエスに従う者にとっては、それが負うべき「家族という十字架」である。
 家族は血の繋がる最も近い関係であり、それゆえ理解や協力も得られやすいが、しかしいったん敵に回ると、その憎しみや敵対心は他のどの関係よりも激しくなるのである。
 イエスは「家族のだれにも勝る愛を」ご自身に注ぐように命じられている。つまり、イエスを誰よりも愛する者でなければ、真の意味でイエスの弟子足り得ないからである。この家族に勝るイエスへの愛の要求が、家族という関係を引き裂く「剣」なのである。
 しかし、誤解していけないことは、イエスへの愛の要求は、決して家族に対する愛を否定するものでないということである。イエスか家族かという二者択一を求めているのでなく、優先順位を求めているのである。
 このようなイエスの要求は、ひとえに私たちが「永遠の命」にあずかるためである。永遠の命は何物にも代えがたい、永遠の至福だからである。

蛇の賢さ・鳩の素直さ(マタイ10:16~33)

2008.07.14

 キリスト教は、これまで迫害や弾圧を受けた歴史を持つ。そのような時の身の処し方、心構えが記されている。その身の処し方をイエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と教えられた。
 強力な権力者による迫害や弾圧を受ける時、キリスト者はまるで「狼の群れに送り込まれた羊」のようである。狼のような凶暴な力に抗うことは、羊のようなキリスト者は無力である。勇ましく凶暴な狼と戦うことも一つの方法ではあるが、それで命を落とすことは無謀でもある。
 イエスは「一つの町で迫害されたら、他の町に逃げなさい」と命じられた。凶暴な狼に真正面から戦いを挑むよりも、逃げることを命じられたのである。逃げるのは信仰が弱いからでもなく、意気地がないからでもない。これは「蛇の賢さ」なのである。
 つまり、危険と分かっていてわざわざそこに近づく人がいないように、凶暴な狼の群れに囲まれたときには、あらゆる知恵を働かせて身の安全を守るのが賢明である。「蛇の賢さ」とは、あらゆる危機に際して賢明であれという勧めである。

働き手が少ない(マタイ9:35~10:15)

2008.07.07

 イエスは、群衆が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とある。群衆を導くべき立場にあった祭司、律法学者、ファリサイ派の人々、また議会の議員たちは正しく民衆を指導し、導くことができなかった。そのため民衆は生活苦に苦しみ、霊的な渇きを覚えていた。イエスはこのような現状を憂い、弟子集団を組織して全国に派遣された。
 派遣に際してイエスは弟子たちに「異邦人の道、サマリヤには行くな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」と命じられた。まずは「イスラエル民族の救い」というわけである。
 これは、復活の証人として召されている私たちにも一つの示唆を与える。それは、まず自分の周りにいる「失われた羊」の救いから始めよということであろうか。(外国伝道を否定しているのではない)
 さしずめ私たちにとっての「イスラエルの家」は、自分の家族・親族、地域の人々ということになろうか。伝道は「自分の足もとから」が基本である。あなたの周りにはきっと「失われた羊」がいるはずだ!

罪人を招くために(マタイ9:9~13)

2008.07.02

 徴税人マタイが、イエスの弟子になったという物語である。マタイの家での食事風景が描かれているが、そこに多くの「罪人」も集まったという。ここで言う罪人とは、律法を守らない人、守れない人たちのことである。
 律法社会では何よりも「律法」を守ることが至上命令であり、違反者たちは軽蔑され、差別され、疎外されていた。イエスはこのような人々と積極的に関わった。しかし、律法違反者との交流を快く思わない人たちには、イエスのこれらの行動が理解できなかった。
 そこでイエスは自分の立場を「健康な人には医者はいらない。医者を必要とするのは病人である。私は罪人を招くために来た」と弁明されたのである。
 当時の人々は「律法」の要求が重くのしかかり、自由と喜びを奪われ、息苦しい生活をしていた。しかし律法は人間のためにあるのであって、律法のために人間があるのではない。イエスはこの考えのもとに、律法の重圧に苦しんでいた人々を解放しようとされたのである。
 ここは、マタイの弟子としての召命物語であるが、また徴税人として罪を重ねてきたであろうマタイの救済の物語でもある。律法を守れないことをもって罪人と断定し裁いていた当時の指導者に対して、イエスはそれらの人々を律法の呪縛から解放し、罪を赦し救済されたのである。

信仰の土台(マタイ7:21~29)

2008.06.23

 家を建てる時に一番大切なことは、どのような地盤の上に建てるかである。固い地盤の上に建てられた家は、少々の雨、風、洪水に見舞われても家自体は揺らぐことがない。しかし、弱い地盤では、地盤そのものが崩壊するので、家も同じように崩壊する。
 信仰も同じで、実はその人の信仰が固い地盤の上に立ったものであるか、軟弱な地盤の上に築かれた信仰であるかは、その信仰が試練にさらされたた時に一目瞭然となるのである。
 イエスの言葉を聞きながら、ただ聞いているだけの者と、イエスの言葉を実行する者では、その違いが歴然となる。聞くだけの者とは、実を結ばない種のようなもので、何の役にも立たない。そのような信仰は表面的なものであって、いわば砂の上に建てられた家のように、雨、風、洪水などの試練が来ると、たちまち倒れてしまうのである。
 しかし、常日頃から聞いたイエスの言葉を実践する者は、その信仰が鍛錬されているので、たとえ試練が襲っても倒れないのである。聞くだけの信仰と、聞いて行う信仰は天と地の差があるのである。
 

一歩、前へ(マタイ5:38~48)

2008.06.10

 「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とイエスが言われている。これを聞いた誰しもが、不可能と答えるだろう。しかし、私はこの箇所を、抜き差しならない人間関係の改善の点から考えてみたい。
 自分の右の頬を打たれるという相手との関係は、いわば最悪の状態を示している。このような場合に取るべき態度は二つある。一つは、相手の頬を打ち返す。つまり、仕返しをするという方法。しかしこれでは、互いの暴力の連鎖は歯止めがなくなるだろう。
 二つ目は、打たれても仕返しをせず、じっと我慢、忍耐するという方法。しかし、これではかえって相手を増長させるだけという悪い結果になることが多いだろう。以上の二つの方法では、悪い関係を改善することは至難の業である。
 イエスは、第三の方法を教えられた。それが、もう片方の頬を自分から差し出すという方法である。頬を打たれた時には、相手の意志が優先しているが、自分からもう片方の頬を差し出す時には自分の意志が優先する。これがイエスの教える人間関係を劇的に変える方法である。
 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」は、彼らの犯している罪が赦されるように、神に執り成しをせよという意味である。敵の滅亡を祈るのではなく、彼らが罪を犯さないように、また犯している罪を赦して下さるように祈る。これが、キリストの教えられた「愛」である。

心は見えないけれど(マタイ5:21~30)

2008.06.01

 「殺すな」「姦淫するな」はモーセの十戒にある戒めである。イエスは「殺すな」の戒めについて、何も凶器を持って人を殺傷することだけが、殺すことではないと言われる。また「姦淫するな」も、何も実際の関係を持っていないからこの戒めを守っていることにはならないと言われた。
 他者に向かって「馬鹿」「愚か者」と言う者、それも実は他者を「殺している」ことになると言われた。なぜなら、それは他者を見下す行為であり、またたとえ実際口に出さなくても、人を見下す思いで人を見るなら、それは他者を殺したことになるのである。
 また他人の妻をみだらな思いで見ることも、姦淫になると言われる。そのような人間の心の底にあるむき出しの欲望や野心、傲慢さや差別する心が、他者の心を殺し、また女を犯すことになるのである。だとすると、誰一人としてこの罪を免れる人はいないだろう。イエスはこのような人間の心に潜む悪と罪を暴くことによって、これらの罪と罪から離れ、心を清く保つよう促されたのである。
 心を清く保つには、いつも神の言葉に耳を傾け、絶えず祈るしか方法はない。神の清い霊である「聖霊」は、み言葉と祈りを通して、私たちに与えられる。この聖霊に満たされるとき心の底にある罪と悪が清められ、清い心を保つことができるのである。

塩として、光として(マタイ5:13~16)

2008.05.28

 イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われた。塩と光の共通点はあるか。それはどちらも人間の生存上、無くてならないものである。
 「塩」の用途はいろいろあるが、味付けに限って言えば、「塩加減」という言葉があるように、料理を生かすも殺すも「塩加減」による。塩は自らが溶けてなくなることによって、その効果を発揮する。溶けてなくなるとは、いわば、自分が犠牲になるということになろうか。しかし、自分の形を失うが、素材にしっかり浸み込んで、素材を生かすのである。
 これは、まさに自らが死ぬことによって、他者を生かすことに通じる。イエスの十字架の死がまさにそれであった。自らが犠牲になることによって、人類を生かす(救う)のである。
 「光」はたとえそれがどんなに小さな光でも、周りを照らす。暗闇の世界に光が差し込まれて明るくなるように、キリスト者も世を照らす者である。イエスを信じる者は、「地の塩・世の光」である。だから少数者であっても悲観することはないのである。

派遣された者(マタイ28:16~20)

2008.05.19

 「マタイによる福音書」は、復活したイエスが弟子たちをガリラヤに集め、そこから全世界に向って伝道のために派遣するという内容で、その福音書を閉じている。
 キリスト自身が伝えた福音は、キリスト昇天後(マタイにはキリスト昇天の言及はないが)その弟子たちによって(使徒言行録によると、聖霊降臨の出来事の後)全世界に伝えられた。
 ルーテル教会の礼拝は、内容が5部に構成されている「礼拝式文」を用いた礼拝をしているが、その最後の部が「派遣式」である。週日、散らされていた民が日曜日に集まり、そこで礼拝をし、み言葉と聖餐の恵みを受けて、また自分の家庭、職場、地域に復活の証人として遣わされて行くのである。
 しかし、派遣される者は、決して一人で派遣されるのではない。イエスは弟子たちを派遣されるにあたって、偉大な約束を与えられている。それは「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」である。
 「共にいる」とは、イエスが共に行ってくださるということである。道行を共にするということである。だから、派遣される者は、決して一人ではなく、イエスがいつも一緒なのである。

五旬祭の出来事(使徒言行録2:1~21)

2008.05.13

 「五旬祭」は、ユダヤ教の「過越祭」から数えて50日目の春の収穫のお祭りである。キリスト教から言えば、キリストが復活された日から50日目。この日に何が起こったのか。聖書によると、弟子たちに聖霊が降り、イエスの福音を述べ伝えたとある。
 この日を「聖霊降臨日」と言い、「教会の誕生日」ともされている。誕生日と言っても、この日十字架の付いた教会堂が建築されたという意味ではない。
 教会の使命は、イエスの福音を世の人々に伝えることにある。イエスの十字架の死と復活が、人類を罪から救済するための神のご計画であり、すべての人がこの救いにあずかるように招かれていることを、世の人々に伝えること。
 弟子たちが聖霊を受けた時、この福音をいろいろな国の言葉で話したという。それを聞いた人々は、「神の偉大なみ業を、自分の国の言葉で聞くとは」と驚いたという。これは、イエスの福音が全人類に、それぞれの国言葉で伝えられることを暗示している。
 それ以来、教会は、イエスの福音が初めて弟子たちによって伝えられたこの日を、教会の誕生日として祝っているのである。

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