イエスは多くの教えを述べているが、結局イエスがいちばん言いたかったことは何かと言うと、私は「互いに愛し合いなさい」と言うことだったと思う。キリスト教は「愛の宗教」と言われ、神への愛と隣人愛をその中心的な教えとしているが、互いに愛し合う、つまりお互いに仲良くしなさいと言うことが言いたかったのではないかと考える。
と言うのは、ユダヤ人と異邦人、律法を守る人と守らない人、病気の人と健康な人、善人と悪人などによって、差別したり敵視したり、見下したり軽蔑したりするのではなく、神は皆を平等に愛してくださっているのだから、私たちも人種や身分の違い、性差、貧富や社会的地位の差などによらず、互いに愛し合うことが平和をもたらすことになるのではないだろうか。
この世界は互いに愛し合うことのできない現実があるが、しかしいつまでも争いやいさかいを続けていたのでは、平和は訪れないであろう。憎しみや争い、殺し合い、そういう殺伐とした行為を止めて、いろいろな違いを超えて互いを大切にし合う、そのような英知が求められていると思う。「互いに愛し合う」ことの実践が、世界を救うと信じる。
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互いに愛し合いなさい(ヨハネ15:11~17)
つながっていること(ヨハネ15:1~10)
東日本大震災が起こった昨年を表す漢字一文字として、「絆」という文字が選ばれた。被災者とそれを援助する人たちとの絆が強く結ばれた一年であったと言えよう。日課を漢字一文字で表すなら、やはり「絆」であろうか。
ここではその絆は「つながる」という言葉で表現されている。イエスと弟子(私たち)とのつながりである。ではこの「つながり」は何によって結ばれているつながりであるか。それは「愛」である。ぶどうの木に例えられるイエスと、その枝に例えられる私たちは、イエスの愛によってつながれているのである。
イエスは言われる。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と。まず父とイエス。この関係が愛の関係である。そして、次にイエスと私たち。イエスに愛されている私たちが、そこにあるのである。
イエスと弟子の関係を、イエスは「ぶどうの木とその枝」に例えられた。パレスチナにはいたるところにぶどう園があり、弟子たちはぶどうの収穫に至るまでの様子をよく知っていたであろう。ゆえに、弟子たちにはこの譬え話はよく理解できたと思う。
わたしを愛しているか(ヨハネ21:15~19)
イエスとペトロの三度にわたる「愛しているか」「愛しています」のやり取りは、イエスの捕縛後の大祭司の庭の出来事と深く関係していると言われる。その出来事とは、ペトロが大祭司の庭にいてイエスの弟子であることがばれそうになった時、イエスを三度「知らない」と言って、イエスへの背信行為を犯したことである。
このことはイエスが事前に予告していたことであり、イエスを三度知らないと言って鶏が鳴いた時、ペトロはそのことを思い出して庭を出て「激しく泣いた」。ペトロは弟子の誰にも勝ってイエスを愛していたであろう。しかし、ペトロはその弱さのゆえに取り返しのつかない罪を犯してしまった。
三度「わたしをあ愛しているか」と問い、「あなたを愛します」と答えることを持って、イエスはペトロの罪を赦し、失意の底から立ちあがらせることによって、ペトロを回復させられたのである。
さらにイエスはご自分の羊(民衆)の世話をペテロにゆだねるのである。イエスはペトロの最期のことについても触れているが、その予告通り(伝説によると)ペトロは神の栄光を表す死に方をして、その生涯を全うしたのである。
三度目の復活(ヨハネ21:1~14)
ヨハネ21章は、イエスの復活顕現がエルサレムだけでなく、ガリラヤでもあったことを語るために付加されたのであろう。そして、このガリラヤでの復活顕現が「三度目である」と言う。使徒言行録によるとイエスの復活顕現の限定的な期間は「四十日間」とされており、その間ヨハネ福音書では、エルサレムで2回、ガリラヤで1回顕現されたのみである。しかし、ヨハネはイエスの復活顕現は、「もうこれで三回目である」と言う。
つまり、復活したイエスが弟子の前にその姿を現わされたのは、マタイでは(復活日の朝、女性たちに現れたことを除けば)ガリラヤで1回、マルコはそもそも復活顕現の物語はなく、ルカではエマオ途上の弟子への顕現を除けば、弟子全体に現れたのは1回のみである。しかし、復活のイエスが顕現された回数が「多い」のか「少ない」のか、数量の問題ではないだろう。
というのは、イエスの復活顕現は、その出来事の影響の大きさにこそその本質がある。というのは、イエスの復活に出会った者は皆、まるで別人のように作り変えられているからである。直弟子しかり、またキリスト教の迫害者だったサウロ(後のパウロ)しかりである。イエスの復活顕現に出会った者は、それまでとは全く違う人間として生まれ変わり、その人生が180度転回しているのである。それが、イエスの復活が持つ偉大な力である。
福音を宣べ伝えよ(マルコ16:9~18)
マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたと考えられるが、イエスの復活顕現の記事が欠落していることから、後の時代に9節以下が付け加えられたものと思われる。
最初の内容は、マグダラのマリアへの顕現、エマオ途上の二人の弟子への顕現であるが、他の弟子たちはこのマリアの証言を聞いても、二人の弟子の証言を聞いても、イエスが復活したことを信じようとはしなかった。それで、最後には十一人が揃っているところに現れ、弟子たちの不信仰を嘆き、そのかたくなな心をとがめられたとある。しかし「復活されたイエスを見た人々の言うこと」を信じなかった弟子たちへの咎めは、後の時代の人々に向かって、イエスの復活を見ないで信じる、すなわち聞いて信じる信仰を促している言葉と受け取れる。
いずれにしても、イエスの復活は弟子たち自身もそうであったように、なかなか信じることのできない出来事であったろう。その信じがたい状況が、弟子たちの不信仰という形で投影されていると言える。しかし、イエスが復活されたことはまさに私たちにとっては大いなる「福音」であり、それゆえ、イエスは弟子たちにこの福音を全世界に宣べ伝えよと命じられているのである。
イエスは復活された(マルコ16:1~8)
日曜日の朝早く、数名の女性たちがイエスの葬られた墓に行ってみると、入り口をふさいでいた大きな石が取りのけられ、その中にイエスの遺体は見当たらなかった。驚いている女性たちに、そこにいた「白い長い衣を着た若者」即ち主のみ使いが、「十字架につけられたイエスは復活して、ここにはおられない。(弟子たちは復活されたイエスとは)故郷のガリラヤでお目にかかれるであろう」と告げた。
その時の女性たちの様子を、マルコは「震え上がり、正気を失っていた」と記述している。正直言って、死人が生き返ったということをまともに聞ける人がいるだろうか。死者が復活したというニュースは、人間の正気を失わせるほどの驚天動地の出来事なのである。
イエスの葬られた墓が「空っぽ」になったということをもって、マルコはイエスの復活を証言している。イエスの復活の意味は、人間の「最後の敵である死を滅ぼした」ことである。死んだイエスが神の力によって復活したことは、イエスの死への勝利を表している。
イエスを信じる者は、死を克服するだけでなく、永遠の命をもいただけるのである。永遠の命とは、復活されたイエスの命にあずかることである。
十字架の死に至るまで(フィリピ2:6~11)
この個所は初代教会時代の讃美歌ではなかったと言われている。そのためこの個所を、詩文のように翻訳している聖書もある。また一つの信仰告白のような韻を含んでいるようにも思える。
その内容には驚くべきことが書かれている。それはイエスは神の身分であったが、僕の身分になったというところである。僕とは奴隷のことであり、その意味するところは、私たち人間に仕える者になってくださったということである。神の身分であり、神と等しい方が、人間に仕える下僕となられたというのである。
人間世界では逆のことがまかり通っている。それは人間や他の被造物が「神のようになる」ことである。権力者や時の覇者が、まるで神のような存在、地上に舞い降りた神の化身のように考えられ、それを崇拝したり礼拝することを強要するのである。イエス時代のローマ皇帝しかり、戦時中の日本の天皇しかりである。戦時中は軍国主義の中で、天皇は現人神と考えられ、天皇への忠誠をすべての国民に強いたのである。
イエスの下僕の究極の姿が、十字架の死である。その十字架の死に、イエスの父なる神への従順さが示されている。神の身分であるイエスが私たち人間に仕える僕となり、父なる神に従順となられて十字架で死んでくださったことにより、私たちの救いが完成したのである。
ニコデモとヨセフ(ヨハネ12:36b~50)
日課の前半部分にはユダヤ人の不信仰が言及されているが、議員の中にはイエスを信じた者がいたという。しかし、彼らはその信仰を公には表わさなかった。それは彼らがユダヤ人を恐れたことと、また公にイエスへの信仰を表明することによって自分の地位が危うくなることを恐れたからであろう。このような人物としてヨハネ(福音書記者)は、ニコデモとアリマタヤのヨセフを登場させている。
ニコデモは夜ひそかにイエスを訪ねて教えを請うており、またイエスがメシアかどうかを巡る民衆の対立の場面では、祭司長やファリサイ派の人々にイエスを弁護するような発言をしている。アリマタヤのヨセフはイエスを葬った人物であるが、ピラトに遺体を引き取る願いをするときに(ユダヤ人を恐れていたが)「勇気を出して」願い出たとある。その埋葬の時にはニコデモも登場している。
イエスが捕縛されたとき、直弟子たちは皆ユダヤ人を恐れて逃げてしまった。そしてイエスの死、埋葬の時にも姿を現わしていないのである。しかし、ヨセフは勇気を出してイエスの遺体を引き取り、埋葬したのである。公に信仰を告白していた弟子たちも、公には信仰を告白できなかったヨセフやニコデモたちも、ユダヤ人を恐れてそれぞれ行動していたのではあるが、どちらの信仰がどうなのであるか考えさせられてしまう。
公に信仰を告白していたが肝心のイエスの死と埋葬の時にいなかった弟子たちと、公には告白できなかったけれどもイエスの埋葬をしたヨセフたち、私にはどちらの信仰も差がないように思える。
独り子を与えるほどに(ヨハネ3:13~21)
ヨハネによる福音書3章16節のみ言葉は、聖書中の聖書と言われる。このみ言葉に全聖書の言わんとすることが要約されているからである。
「独り子」とはイエスのことであり、神はその独り子を与えるほどに世を愛されたと言う。「与える」ことの内実は何か。それは、イエスの犠牲の死、身代わりの死のことである。十字架刑という、当時最も残酷な処刑方法によって葬られたことが、「与える」の内実である。人間が犠牲の動物をいけにえとしてささげて神に罪の赦しを得たように、神が人間の罪を赦すためにイエスを犠牲のいけにえとしてささげたというのである。
なにゆえ神はそのようなことをなされたのかというと、「この世を愛された」からであると言う。この世とは、すべての人間のことであり、私のことでもある。つまり、神はこの私を愛してくださったゆえに、独り子イエスをいけにえとして犠牲にされたというのである。それはなぜかというと、「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と言う。ここに神の愛がある。
神はこの世を愛して下さったゆえに、その独り子さえも惜しまれなかったという。何という神の愛の大きさ、高さ、広さ、深さであろうか。
飲むべき杯(マルコ10:32~45)
今回のエルサレムへの旅では、「イエスは先頭に立って行かれた」とある。これまでの旅行では見られなかった光景である。弟子たちは、先立ち行くイエスを見て驚き恐れたという。イエスが先頭に立って歩くのは、イエスの堅固な意思と決意を表している。それはこのエルサレムへの旅は、イエスにとっては「死出の旅」であったからである。
その旅の途中、イエスは自分の受難と死を予告するが、弟子は理解しない。イエスがエルサレムに決然として進むのを見て、ヤコブとヨハネはそこでイエスが栄光ある地位を占めるために上っているものだと勘違いをしたのだろうか。「あなたが栄光をお受けになる時、私たちを右と左に座る者にしてください」という願いは、彼らの勘違いのひどさを物語っている。
イエスのエルサレム行きは、苦難の死を遂げるためである。それがイエスの飲むべき杯である。イエスが来られた目的は、「仕える」ためである。その究極が十字架の死である。イエスが「人に仕える」ために来てくださったのであれば、それに従う者もイエスにならって、人に仕える者になり、すべての人の僕になるべきであろう。それがイエスと同じ杯を飲むことになるのである。
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